無題

日々の思考

日常の話に見せかけて文学の話、文学の話に見せかけて日常の話

 

長い文章の書き方を忘れた。タイトルは雪の中を歩いていたらふと思いついただけのものなので、内容には一切関係がない。

 

この前文学部の哲学の授業に潜りに行ったら教授が"Что такое любовь (愛とは何か)"と言っていた。まさにそれだ。ロシア語が流暢に話せるだとかロシア語検定に受かるだとかそんなことより何よりも考えなくてはいけない問題。ただその授業を履修したところで答えの出るものでもないし、哲学者の生涯について知れば知るほど、こんな奴に愛についてなんて語られたくないという気持ちになる。却下。

 

大抵の人間は愛とは何かなんてわからないのに誰かを愛してしまう、愛してるとか言っちゃう、他人の「愛のようで愛でない愛に似た何か」に対してやけに厳しい。仕方がないのでグレーゾーンな部分について突っ込んで行くが大概お茶を濁される。貞操観念が緩いみたいな扱いを受ける。あなたの愛とやらはそんなに高尚なのね。

 

眠っているだけで王子様が来てくれるのはお姫様のところだけ、いやお姫様だとしても100年かかる。普通の人はとっくに死んでる。眠らせてくれたカラボスにむしろ感謝。

 

小説の中で数年が経過する作品を読み返してみると、以前なら若かりし頃のヒロインに共感していたはずが、気付けば歳を重ねたヒロインの発言がずっしりくるようになっていた。これが歳をとるということらしい。しかし今でもタチアーナのように最高にカッコ悪い恋がしたい。

 

フランソワーズ・サガンが好きな女は地雷である。ソースは私。サガンは最高の女性だがサガン好きの女は痛い。太宰と太宰好きの男にも同様のことが言える。

 

恋愛などと言うけれど恋と愛とは全くの別物である。愛はいらんが恋はしたい。ロシア語はその辺が曖昧なので気に入らない。

 

最近私の中でアツイ「恋しなくなった問題」については感情の死が関わっているだろうという結論に至った。東京に一度戻ったらまた私の中のめんどくさい感情たちが湧き上がって来たので、東京に帰れば恋ができるのではないかという僅かな希望が生まれた。と思ったもののペテルに来る前の半年間も誰のことも好きではなかった気がして来た。もうどうでもいい。

 

ティーン時代の私は「戦略で結婚するなんてそんなの嫌!」などと思っていたがこのくらい感情が死んでくるとそれでもいい気がしてきた。相手が私を選ぶかは知らない。

 

この記事の書き方が『善悪の彼岸』のどこかの章に似てる気がしてきた。あの本で最も印象に残っている一文「人は自らの下半身を見て自分が神でないことを悟る」(正確には忘れた)。色々突っ込みをいれたいけど今日は許してあげる、ニーチェ先生

 

気がついたら1000文字超えてた。

 

歴代の記事の中でくだらなさがダントツ1位であることは目に見えてるしお蔵入りにしようか迷ったが久々に書いたので残すことにする。

 

ネットは便利だ。アカウントごと削除して仕舞えばなかったことにできる。手書きの日記なんかじゃそうはいかない。

 

ああでもやっぱり愛してるって言われたいかも。