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ことばの貯蔵庫

背を速み岩にせかかる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ

 

またひとつ、貰ったネックレスの石が取れていた。きっとこれが、愛の寿命だったのよ。

 

わたしの魂は、それひとつでは不完全だった。

あるいは、全ての人の魂はみな須く不完全で、それが完全となることを求め、人は他者と関わり、恋をして、子供を宿すのかもしれなかった。

 

他の誰かの話はいい。わたしの話だ。

わたしの魂は孤独だった。産まれた時から、否、その魂が肉体を持たず彷徨っていた頃から。

ひとつだったはずの、他の誰かの魂は、ふたつに分かれて別々のふたりに宿った。彼女は魂の片割れを持った人をさがす旅に出た。その人以外、彼女を受け入れることはできないだろうし、彼女もそのまだ見ぬソウルメイト以外、受け入れる気などなかったから。

その相手は案外簡単に見つかった。尤も彼女はとても癖の強い人間であったし、相手の方も中々に個性的な人物であったから。

間も無くふたりはひとつになり、愛し合い、永遠を誓った、筈だった。

やはり無理があったのだ、一度分かれたということは、それなりに理由があって、そう簡単にひとつに戻れるような代物ではなかった。それに魂が肉体を得てからの二十数年間、その肉体に付随して魂の形も変容していったわけで、その変化は、お互いの魂にとって、互いに望ましいものではなかったのだ。ひとつだったはずの魂は、なるべくしてふたつに分かれ、それらはなるべくして別の方向に進んでいたのだ。それを無理にひとつに戻すことは、不可能だった。

 

しかし、本当にこのままふたつに分かれ、二度と戻らなくていいのだろうか、そうだとしたら、なぜふたつの魂は再び出会ったのだろうか。これほどまでに運命に流されてきたふたりの出会いが、無意味なものだったなんて、そんなこと、あり得るのだろうか。

 

今はただ、時が満ちるのを待つしかない。それまでは運命の波に流されるしかない。

 

春の風物詩

 

桜の散る4月、SNSを覗いたり、サークルの新歓に顔を出したり、あるいはただ学食にいるだけでも嫌でも目にしてしまうある種の新入生達がいる。それは所謂学歴コンプを抱えた人達、つまり第一志望校に落ち(それは国立大学であることが多い)、不本意ながら今の大学に入学し、そして同級生たちに「お前らとは違う」という軽蔑の目を向ける人達だ。

認めたくないがわたしだって3年前はそうだった。高校の同級生に比べたら遥かに物分かりの悪い同級生達、真面目に聞いてるのに授業内容を理解していない学生を見ると、こんな人たちと同じレッテルを貼られているのかと思い、気分が悪くなった。わたしはこの人たちとは違う、と思い込みたかった。

でもだからと言って、志望大学に合格した人達とも私は違ったのだ。だって、落ちたのだから。高校から私の志望していた大学に上がった友人達は楽しそうにクラスや学祭の話をしている。じゃあ、私は?

今度はコンプレックスの裏返しがやってくる。幸い私のそれは、今自分のいる大学でしか出来ないことをする、という行動指針となり、お陰で珍しいサークルに入ったり、留学してみたりと、割と充実した大学生活を送り、勉強もそれなりにして、素敵な友人をたくさん作って、今の状況に満足している。考えてみれば私は自分の人生で一番欲しいものを手に入れた記憶というものはあまりないが、とはいえなんだかんだ後になってみれば「これでよかった」と思えている。

私はいつも一番欲しいものは手に入らないけど、でも二番目に欲しかったものだとしても手に入れてみたら案外悪いものじゃない。そう思ってきたし、実際にそうだった。

 

でも、本当にそうなのだろうか。学歴コンプ1年生の新入生達を見ると、心がざわざわする。本当に今が一番幸せなの?それはただ、学歴コンプがカッコ悪いから、自分の気持ちに折り合いを付けたふりをしてるだけじゃないの?どう頑張っても手に入れられないものを考えないようにして逃げてるじゃないの?

 

白孔雀

 

中庭には5羽の白孔雀が居た。雄が2羽に雌が3羽。

真っ白な羽毛に覆われた雄の白孔雀は、後ろに伸ばした長い飾り羽を歩く度に優しく揺らし、求婚の際にはその羽を扇のように拡げ、雌を誘うのであった。拡げられた飾り羽は、緑溢れる庭を真白く覆い尽くした。一瞬にして雪が降り積もったかのように。

 

彼女はその島のたったひとりの主だった。17世紀から彼女の一家が所有しているその島を、一家の唯一の末裔となった今、ひとりきりで管理している。海岸線を沿うように作られたバロック様式の屋敷と中庭、そして小さな聖堂。

 

その島にやってくるのは、3日に1度水上ボートで食料と生活物資を届けにくる港の商店の女主人と、庭師、そして彼女の運転する船で偶にやってくる幾人かの友人達ー決してジーンズもスニーカーも履かないが、気さくで感じのいい人々ーくらいだった。

 

彼女は毎日、手際よく調理された質素だがバランス良く味の整った3食の食事を作って食べ、部屋を掃除し庭の花で飾り付けると、その残りの時間のほとんどを、読書に費やした。ある時は本棚に囲まれた書斎で、ある時は庭を一望できる窓辺で、またある時は砂浜で。先祖代々が集めた蔵書は膨大なもので、これだけの時間を読書に費やしても、読むものがなくなる心配はなかった。

 

 

 

 

満たされた人間の作った芸術作品に、何の意味があるのだろうか。

近代以降の芸術。古典主義からロマン主義へと移行し、規範に沿った作品を大量生産する時代から、個が、芸術家個人の感情が、魂が重視されていく。

そして20世紀。神が死んだ世界で芸術は宗教へと成り代わり、芸術家は聖職者へと成り代わる。彼らは崇拝の対象となり、芸術という神の元に殉教されることを期待される。そう、ゴッホも、芥川も。

 

満たされた私にはもはや書くものなどなかった。それ以前に、芸術というものを以前ほど渇望することもなく、精神的富裕層の遊びであるかのように、ただ嗜む程度になっていた。幸福という器が満たされると、創作欲求や表現欲求といった器は、みるみるうちに枯渇していった。

 

私を幸福にした張本人としては、それは不本意だったのだろう。不幸であるから故に手に入れた芸術とその雰囲気は、あろうかとか彼女を満たせば満たすほど失われていった。気付けば彼女は文章を書くのをやめ、哲学的な命題について議論したがらなくなった。きっと本を読むのもやめてしまったのだろう。