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日々の思考

量産型サブカル女子大生がロシア語劇サークルで主役を演った話

 

「種子が熟す瞬間が来て、俳優は、役の外面的、内面的特徴を配慮する必要がなくなる。俳優の芸術的自然自体が、それを配慮するようになる。必要なのはただ、祝祭的気分である。舞台を感じる喜び、必要なのは表現したいという、言い換えれば想像したいというエネルギッシュな願望に満たされることなのだ。こんな瞬間には演じる必要はない。」

 

大学生になったら、大学オケに入ろうと決めていた。チェロを弾くことはほとんど唯一の自己表現の手段だったし、高校でのオケ部生活はとっても実りあるものだったから。他大の団体の新歓にも顔を出し、合奏を見学して、結局入ったのはロシア語劇団だった。

ロシア演劇なんて見たことも聞いたこともなかった。チェーホフだって世界史で名前を覚えた程度で読んだこともなかったし、そもそもロシア語だってシャレでやるつもりだった。

 

水曜日の3限、ロシア語の会話の授業に、先輩が授業宣伝にやってきて、去年の本公演の台詞を言っていった、ロゴージンの台詞。一言目を発した瞬間、空気が変わったのがわかった。何言ってるかなんてさっぱりわからなかったのに、わからなかったのに引き込まれてしまって、気付いたら新歓に行っていて、気付いたら入団してた。オケに入るつもりだったのに。

 

7月に新人公演をやった。失敗した。余裕だと思ってたのに舞台に出て観客の顔が見えた瞬間、固まってしまった。台詞を言うのを完全に忘れてて5秒くらい間が開いた、完全なる練習不足。めちゃくちゃ悔しかった、本当に。

 

そして本公演。カテリーナ。戯曲を一度読んだ時から、これしかないと思った。技量とか、自分に似てるとか似てないとか、好きとか嫌いとかそんなこと関係なしに、やりたいと思ってしまった。

稽古は楽しかった。いや、いつもいつも楽しいわけではなかったけど、充実していた。苦しむだけの価値があるものだった。

自分からやりたいと言ったのに、最初はカテリーナの純粋な気持ちがわからなかった、鳥になりたくって、神様が大好きな、自分を自分で責めて自殺にまで追い込んでしまう、そんな美しさが。わたしには本当に心から演じることなんて出来ないんじゃないかって思った。だけどそれでも、無自覚ながらもきっとどこかで彼女に共鳴していた。多分。だからやりたいと思ったんだろうし、だんだんそうやって自分の中のカテリーナが見えてきた。人って他人を見ることでしか自分を知り得ないんだと思う、いつだって。

舞台の上にいる間だけは、自分の心の中心にほんのちょっとだけある美しい部分が肥大化する。そして、いつも恥ずかしいから、傷つくのが怖いから何層にも何層にもいろんなもので覆って隠しているそれを隠さずにいられる、綺麗な人間でいられる。他人になることで自己を表現する、演劇ってすごい。

 

公演は成功だったのだろうか。そもそも成功って何なのか。全ての回ほぼ満席になるほどのお客さんが来てくれて、多くの人が満足して帰ってくれたのではないかと思う。中には涙を流してくれた人もいたし、アンケートやカンパの結果もそれを物語っていたと思う。

だけど、結局は、成功したかどうかっていうのは、やってる側が満足出来たかなのではないかと思ってしまう。クオリティとか集客とかカンパとか、そういうのは私達「やってる側」を満足させるための要因であって、それだけでは成功か失敗かなんて言えないんじゃないだろうか。って考えてしまうのはわたしがゆとりだから?

 

サークルの皆には感謝しかしてない、本当に一人残らず、それぞれに原稿用紙10枚分くらいのありがとうがある。けど、ここに書くのもなんか違うし、口にしてしまったら嘘になってしまう気もするし、何より照れ臭いから言わない。また役者をやって、次はもっといいものを作ることでお礼にするってことで。

 

舞台がすべてわたしのものになる瞬間、クセになりそうです。芸術に従事する喜びってどんな麻薬よりも強力ですよね。

 

 

 

冬の日の東京。無数の既視感と思い出が、ゆっくりとわたしを殺していく

 

「みんなどこかしら暗いところに閉じ込められて、食べるものや飲むものを取り上げられて、だんだんゆっくりと死んでいくものじゃないかしら。少しずつ、少しずつ。」

ねじまき鳥クロニクル』で笠原メイがこんなことを言っていた。井戸の中に入り、空腹と戦いながら、一日に一度太陽の光が差し込む瞬間をひたすら待ち続ける。身体も心もゆっくりと衰退していき、やがていつ死んだのかもわからないままに死んでいく。

 

東京都内の学校に通うようになってから早7年、場所にまつわる思い出は年々増えていく。

新宿南口、サザンテラス。新宿三丁目から新宿駅にかけての地下通路。池袋東口茗荷谷宮益坂下の交差点、ゴントランシェリエ。原宿から表参道にかけてのイルミネーション。

新宿も渋谷も池袋も、今となっては知らない通りなんてほとんどなくて、思い出はストリートビューのように蓄積されていく。12月の寒さとイルミネーションは感覚に訴えかけ、記憶と感情を呼び起こす。

 

こうして東京は思い出の街になっていき、暴力的にも自分が変わってしまったという事実を目の前に叩きつける。その事実を受け入れられない自分もまた、次の冬には思い出になっている。東京とはそんな所で、この街に骨を埋めるというのはそういうことなのだろう。

 

高田馬場都営大江戸線、池袋北口に殺される日もいつか来るのだろうか

 

 

姫は死ぬのではなく100年の眠りにつくだけです。100年後王子様のキスによって再び目覚めるのです。


小さい頃、毎年年末になるとマリンスキーバレエの来日公演に連れて行ってもらってた。お姉ちゃんとお母さんと3人で。新国立だったっけ。


「眠りの森の美女」って血友病の話だよね、と言ったら夢がないと怒られました。きっと、実際に若くして亡くなった王女がいて、その悲しみからできたお話なんだと思うんだ。


オーロラ姫が生まれると、妖精たちが宮殿にやってきて、ひとりひとつずつ姫にギフトを贈る。「優しさ」とか「勇気」とかそんなもの。

ところが悪い妖精のカラボスが、自分がそのお祝いに招待されなかったことに腹を立てて、オーロラに、20歳の誕生日に針を手に刺して死ぬ、という呪いをかける。

ここで都合よくリラの精登場、「そういえばさっき贈り物するの忘れてたわ。ではこうしましょう。姫は死ぬのではなく100年の眠りにつき、100年後王子様のキスによって再び目覚めるのです。」という。


美味しいところを全て持っていくリラの精。てかなんで贈り物するの忘れてるのよ。っていうのが正直な感想。

ただ、時限爆弾的な贈り物って実は一番欲しいものなのかもしれない。


わたしの話をすると、まさにわたしは現代版オーロラ姫って感じだった。望まれて生まれてきて、愛されて、愛されて、物質的にも精神的にも恵まれた。容姿は置いておいて、たくさんいいものをもらったと思ってる。

でも、それでも、どんなに恵まれていてもうまく生きられなくなる時が必ず来る。その時に必要なのが、呪いを弱めて王子様を連れてきてくれるリラの精であり、ホールデン君の言うところの"the CATCHER in the rye"なのだろう。

呪いから姫を守り、崖から落ちかけた子供たちを拾い上げる存在。

わたしはそんな人達にも恵まれた。わたしにとってのリラの精は誰だったんだろう、そして現在進行形で誰なんだろう、と思うとたくさんの人が浮かんでくる。だからこうして生きていられる。誰も王子様は連れてきてはくれなかったけど。


今度はわたしがリラの精になる番だ。




自由意志を持ちながらもなお善を選び取ることこそが尊い


というのと同じで、欠点に気付いた上でもそれを愛してしまうというのは最高に強い、そして救いようがない。


アウグスティヌスの話はしません。


わたしにとって、高校生活というものは決して楽しいものではなかった。多分。もう当時の感情はよく覚えていないし、そもそも当時から定まった感情を持っていたとも思えない。それにもちろん楽しかった思い出だってちゃんと覚えている。

だけど、それでもどこかに漠然とした不安感が、揺らぎがあって、それが大いにわたしを苦しめていた。特に理由もないのに授業をサボってみたり、軟骨にピアス開けてみたり。他にも色々。。。

きっと誰しも多かれ少なかれ同じような問題を抱えていたんだと思う。表に出さなくとも、内心心穏やかではなかったのではないだろうか。部活や行事で揉めるのだって、元を辿れば個々人の問題なのだ。


今、わたしは19歳に、或いは大学生になって、いくぶんか生きづらさが解消されたように思う。少なくとも17の頃に比べたら、何も考えずに息が出来るようになったように感じる。

でも、それでも、信じられないだろうけど、高校時代に戻りたくて仕方がないのだ。あの頃一刻も早く抜け出したかったあの苦しみの中に、もう一度身を浸したくて仕方がないのだ。


ハロウィンに制服を着て、もうわたしは女子高生じゃないってことを実感しました。時間って恐ろしいですね。


名に愛でて 折れるばかりぞ 女郎花 われおちにきと 人にかたるな


和歌にはめっぽう暗いですが、僧正遍昭の歌は色っぽくて好きです。

この歌が本当に花を折った云々の話ではないことは誰の目にも明らかなわけで。堕落した聖職者というものは、いつの時代も、どの地域でも魅力的なものですよね。


ギリシャ神話の講義をしていた教授が「不倫は楽しいですよ」って言ってた。「悪い事だから楽しいんです」だって。

オストロフスキーの「雷雨」。頼りにならない夫と意地悪な姑を持った主人公は、夫のいない間に、密かに想いを寄せる相手に会いに行ってしまう。私はその逢い引きのシーンがたまらなく好きだ。

最初は理性の方が勝っていて、彼のことを拒もうとするものの、感情が抑えられなくなり、受け入れてしまう。「あなたのためなら罪だって怖くないわ、地獄なんて怖くないわ」って。箍が外れて一気に堕ちていく、最高に人間らしくて、最高に美しい。不倫なのに、罪深いことなのに、思わずうっとりしてしまう。



罪は甘い。堕落は美しい。

とんでもない役を演じなければならないみたいだ。



亡くなった人にいつまでも縛られていてはいけない


ずっと書きたいと思っていたブログ、だけどきっと、すぐに書かなくなってしまうだろうと思って、なかなか始められなかったのだけど。まあ続かなくてもいいやーと思いつつ、何か書きたくなった時の捌け口のひとつとして。

自分のためのものだけど、読んでくれたら嬉しいです。


哲学者になりたかったわたしの話。

2014年8月31日。大好きだった現代文の先生。職業、哲学者。人と人なんて、別れてしまっても、本当に会いたいと願って行動すれば再会できるものだと思っていた。

会えなくなってしまったことが問題なのではない。問題は彼女に投げかけるべき質問と、彼女から受け取るべき返答が山のように残されたまま別れが来てしまったことだった。

もちろんフーコーやレヴィストロースは大好きだし、ドゥルーズなんかもわからないながらもどこか惹かれるものを感じる。だけど、イデオロギーから自由になりたい、なんて大義以前に、単に彼女の頭の中を、彼女が信じたもの、彼女が愛していたものを覗いてみたかっただけなのだ。


もし、あの夏休み明けに彼女と話をしていたら、彼女の考えていたことを知り得ていたとしたら、きっと私は今頃医学部にでも行っていた(または浪人していたか)だろう。それが文学部なんかに彷徨うことになってしまったのは、結局は彼女の亡霊を追いかけていたからなのだ。



亡くなった人にいつまでも縛られていてはいけない。いくら哲学を学んだところで私は彼女になれないし、彼女は戻って来やしない。



何が言いたいかというと、露文に行くことに決めました。

ロシア文学が好きでたまらない、と言ったら嘘になる。だけどどこか気になってしまう。それにそろそろ死者と距離を取ってもいい頃だ。